大阪地方裁判所 昭和34年(ヨ)1612号 判決 1962年8月10日
申請人 山本健三 外一名
被申請人 呉羽紡績株式会社
主文
申請人らの仮処分申請はいずれもこれを却下する。
訴訟費用は申請人らの負担とする。
事実
申請人ら代理人は被申請人は申請人山本健三をその大阪本社勤務従業員として取扱わなければならない旨の判決を求め、その理由として、
一、被申請会社(以下、単に会社という)は肩書地に本社、東京都及び名古屋市に各支店、長岡市ほか八ケ所に各工場、を有し従業員約八、〇〇〇名をもつて綿、羊毛製品などの製造販売を営む紡績会社であり、申請人山本健三(以下、単に健三という)は会社の大阪本社総務部株式課に、申請人山本喜久枝(以下、単に喜久枝という)は大阪本社財務部資金課に、それぞれ勤務する会社従業員であり、かつ、申請人らは夫婦であるところ、
二、会社は健三に対し昭和三四年二月二一日付辞令をもつて本社総務部株式課勤務を解き名古屋支店勤務を命じた。
三、しかし、右転勤命令は次の理由により無効である。
(一) 右転勤命令は不当労働行為である。すなわち、
1 健三の組合活動
健三は昭和二五、二七年度の呉羽紡績労働組合大阪支部(以下、単に大阪支部という)評議員を、昭和二八、二九年度は引続き大阪支部書記長、呉羽紡績労働組合本部(以下、単に本部という)中央委員、全繊同盟大阪府支部執行委員を、昭和三〇年度は大阪支部執行委員を、昭和三一年度は大阪支部評議員を、それぞれつとめたが、(イ)昭和二五年の評議員時代には同年一一月に行われた爪生田中央執行委員、島大阪支部執行委員らの解雇(レツドパーヂ)に関し大阪支部臨時大会の席上でレツドパーヂ反対の強力な発言をして解雇反対の大会決議を生む原動力となつたし(ロ)昭和二七年の評議員時代には会社から提案された終業時刻の三〇分延長案に反対したほか、同年末から昭和二八年にかけて問題になつた京都工場閉鎖に反対し、とくに伊藤中央執行委員長が会社の意を汲んで各支部へ送付した「閉鎖も止むをえない」との秘密文書を暴露して組合の御用化に対して警鐘をならし、(ハ)昭和二八年の大阪支部書記長時代には、懸案の冷房装置設置を会社に要望してこれを実現し、また当時綿紡関係の一斉操短に歩調を合せて行われた人員整理に反対し、或は不当な出向命令と闘い、また同年七月の賃上闘争の際会社の行つた組合役員の誹謗による組合への支配介入並に組合機関紙への干渉に対して徹底的抗議活動を行い、昭和二九年の支部書記長時代には、近江絹糸労組の争議を積極的に支援し、その支援中に繊維懇談会を結成して企業の枠をこえて繊維労働者の交流を計り、また同年の賃上闘争では中央労働委員会の提示した斡旋案に反対して支部闘争委員会並に支部臨時大会でストライキを以て断固闘うべきことを主張したほか、全繊同盟大阪府支部執行委員としては総評、全労の統一メーデーの実現に努力し、また大阪総評幹事(当時、全繊同盟はすでに総評を脱退しており、したがつて呉羽紡績労組も単組としては総評に属していなかつたが大阪支部のみが大阪総評にとどまつていた。)としてツボミタオルの闘争に対する総評の支援に協力し、また大阪化繊取引所の労働組合結成に努力して成功させた。(ニ)昭和三〇年の大阪支部執行委員時代には、労働部長として交通費の増額を会社と交渉してこれを実現し、また同年四月におこつた呉羽化成株式会社への転籍、出向問題に関しては、転籍出向該当者の声を直接きいて中央委員会に反映させ、転籍出向該当者の労働条件の悪化を防ぐべく努力し、また同年五月会社の行つた名古屋支店縮少移転、名古屋木管部閉鎖の計画の発表、これにともなう人員整理に終始反対し、とくに反対闘争のために設けられた大阪支部闘争委員会の企画部長として戦術の立案、法規の研究調査をはじめ現地組合員の声を全単組に知らせて反対闘争を拡大させ、遂に会社をして木管部閉鎖を撤回させた。さらに、同年秋綿紡賃上統一ストライキの際呉羽紡績労組が上部団体である全繊同盟の統制を破つて単独妥結をしたのに対し労働者の団結を守る立場から、ただ一人最後まで反対し加えてこの統制違反を契機に呉羽紡績労組が全繊同盟を脱退するという動きを示したのに対しても強く反対し大阪支部をして脱退反対の決議をなさしめた。(ホ)昭和三一年三月には鈴鹿工場で行われた中央大会に出席し、組合民主主義を守る立場から、本部提案の運動方針中の、フラク活動監視の項の削除を提案し可決させ、また評議員として社宅の改造要求、株式課の労働強化反対、住宅手当廃止反対、ストライキ中の協定勤務者の増員改定の反対、大阪支部の大阪総評からの脱退反対を強く主張し、とりわけ株式課の労働強化反対にあたつては職場討議を通じて一般組合員の関心を高め、労働基準法に違反する女子従業員の残業強制に対しては株式課長、庶務課長(本社労務担当)、に厳重抗議した。(ヘ)昭和三二年、三三年は組合の役職にこそなかつたが、職場での討議、支部大会での発言、組合機関紙への投稿等を通じて組合幹部の右傾化、御用化を批判し、組合をあるべき姿に戻すために下からの活動を根気よく押進めた。たとへば、昭和三二年には猪名川社宅の入居基準について会社が不明朗な扱いをしたことに対しこれを組合に持込み機関紙などで会社の不当性を宣伝させたし、また会社の厚生施設である六甲山荘を健康保険組合に売りつけようとする会社側提案に反対し問題を組合に持込んでこれを阻止することに成功し、また昭和三三年三月の支部大会において健全な組合運営を確保するため委任投票制に反対し或は従業員の既得権であつた始業時一〇分間のアローワンス(一〇分以内の遅刻は遅刻として取扱わない制度)を廃止する旨の会社通告に対しては評議員を説得する方法で反対闘争を盛りあげたし、また同年秋の、いわゆる警職法反対闘争時における支部大会では警職法が悪法であることを周知するための集会を開くべき旨提案し組合活動と密接な政治活動の面でも指導的役割を果した。さらに同年暮から問題になつた後記「退職予定者受付」に関する会社側申入に対しても職場討議を通じ、又は評議員の代理として評議員会に出席し或は機関紙へ投稿するなどの方法で反対し、その際会社が行つた興信所による調査問題がおこるや喜久枝と共に被調査者から事情を聴取し会社に抗議した。以上のとおり健三は組合の役職にあつた時代は勿論、役職をはなれてから後も常に一貫した労働者的立場を堅持し、労働条件の改善、闘う組合の育成、会社の干渉排除、労働者の自主的文化活動の擁護のためにねばり強い活動を続けてきた。
2 喜久枝の組合活動
一方、喜久枝は昭和二四年には大阪支部執行委員、同年一一月から昭和二六年五月までは本部書記、昭和二九年には大阪支部評議員、昭和三三年には大阪支部婦人部副部長、をそれぞれつとめたが、(イ)昭和二四年の執行委員当時は青年婦人対策部長を担任し、本部書記時代には全繊同盟婦人労働問題研究会の委員も兼ねて、それぞれ組合活動をしたほか、(ロ)昭和二八年には大阪支部婦人部委員会で生理休暇の取得状況につき実態調査を行うなど女子労働者の労働条件の改善につくしたし、大阪総評婦人部と緊密な連絡をとり全駐労争議、敷島紡績笹津支部における組合活動家除名反対運動、生野ゴム争議など他労組の争議を積極的に支援し、(ハ)昭和二九年には同年の支部役員改選時に当時の執行部を「赤」呼ばわりして労使協調をモツトーとする一連の対立候補が現われたので役員選出委員、選挙管理委員として、組合運動のあるべき姿、組合役員の任務、自主的な組合を守るための公明選挙などについて説得活動を行い組合の御用化防止に努力したし、また近江絹糸の争議を契機として生れた繊維懇談会を中心に他の繊維関係企業の青年婦人労働者との交流につとめたほか、婦人のサークル活動をも推進し、(ニ)昭和三〇年には、既婚女子労働者の労働条件向上のため支部婦人部の協力を得て第一回既婚者懇談会を発足させ、また女子労働者の意識を高めるため学習会「ドングリクラブ」をつくつたし、さらに会社の名古屋支店縮少、木管部閉鎖の計画、呉羽紡績労組の全繊同盟脱退などに対してはいずれも反対を主張してその方向への組合員の説得活動を活溌に行つたし、(ホ)昭和三一年には本部通信員として中央機関紙への投稿活動をし、(ヘ)昭和三三年には、大阪支部婦人部副部長として女子労働者の賃金への関心を高めるべく基本給細則の説明会を開くなど婦人の組合意識の向上に努力し、支部大会でも婦人層の声を反映すべく積極的な発言をし、また役員選挙に際しては健全な組合運動を守るため、いわゆる委任投票制に反対したほか、昭和三二、三三年を通じ各種の組合機関紙への活溌な投稿活動をした。(ト)また、昭和三二年下半期からの繊維業界の不況、その結果としての操短強化にともない、会社は永年勤続高給の女子従業員、既婚女子従業員をできるだけ少くし低賃金で使用できる未婚若手女子従業員を採用するという一貫した人事構成方針に基き、昭和三三年一二月「退職予定者受付」を行うと発表し右受付実施については既婚高給女子従業員は愛社精神をもつて協力されたい旨強調したが、これに対し喜久枝は大阪支部婦人部の中心となり支部婦人部の意思を統一して反対に立ち上らせ、会社のいわゆる肩たたき(直接間接にする退職勧告の方法)の防止を各支部に呼びかけ、またその際大阪支部では世帯持女子従業員六名のうち四名及び未婚永年勤続女子従業員一名に対し会社は興信所を使用して資産調査をなさしめたがこれは明らかに退職勧告のためのいやがらせであるから、これを暴露して会社に抗議した(なお、右いやがらせの結果世帯持女子従業員のうち三名が退職予定受付に応ずるに至つた)。
3 健三、喜久枝、組合に対して会社のとつた態度
(イ) 昭和二八年三月健三が大阪支部書記長に立候補したとき、会社の原田庶務課長(本社の労務担当者)は健三に対し立候補を取下げるよう勧め、(ロ)昭和二九年春健三が大阪支部書記長に立候補したときにも前記原田氏(当時は呉羽化成株式会社総務部長であつた)から立候補取下を強く要請され、(ハ)昭和三〇年四月健三が大阪支部書記長(組合専従)から原職に復帰したとき株式課に配置されたが、その際、健三と同期に入社した者は当時殆んど職階が五級一号になつていたのに会社は健三の職階をそれより低い四級八号と定め以て差別扱いをし、(ニ)同年五月名古屋支店縮少、木管部閉鎖問題について名古屋で中央団交が行われた際、会社は健三が右団交に出席することを拒否し、(ホ)昭和三四年一月「退職予定者受付」問題について支部評議員会が開かれた際株式課選出の評議員である寺石氏が出席できないため健三が代理出席することを申出たところ、従来評議員会が就業時間中に行われた例は屡々あり、かつ、出席を拒否された例はなかつたのに秋山株式課長は就業時間中であるからとの理由で健三の出席を拒否し、(ヘ)昭和二六年四月喜久枝が本部書記(組合専従)から原職に復帰したとき、喜久枝は同女より経験年数の古い者よりも号俸が高いとの理由で二号俸減俸され、(ト)昭和三三年四月行われた成績査定に際し社員の九二%に対し職務給の昇給が行われたにも拘らず喜久枝に対しては昇給が行われず、差別扱いがされ、(チ)昭和二八年春から夏にかけて行われた賃上闘争に際しスト権確立のための組合員の投票時に、会社の各職制が一斉に組合幹部を中傷し組合の分裂、介入を策し、かつ、これに対し大阪支部闘争委員会が抗議文を掲示したところ、会社の今井労務部長はその取りはづしを要求したし、(リ)会社は組合の中央機関紙である「労影」、大阪支部機関紙である「花の輪」、の記事についても屡々干渉、中傷、攻撃を加へ、(ヌ)昭和二九年度の大阪支部役員選挙の際、会社は健三を中心とする当時の支部執行部に対立して多数の対立候補者を立てるよう仕向けたほか、昭和三〇年には足立寛次が大阪支部執行委員に立候補した際会社は職制を通じて立候補を取止めるよう干渉し、昭和三一年には荒井竜信が大阪支部書記長に立候補したとき吉川庶務課長が辞退を要求し、昭和三四年には森重司が大阪支部執行委員に立候補した際にも野上資材部長から「昇給に影響がある」旨威嚇して、会社は組合の役員選挙に対し常に干渉を加えた。
4 本件転勤命令が不当労働行為であること
(イ) 昭和二八年に呉羽紡績労組の上部団体である全繊同盟が総評を脱退し、昭和二九年に海員組合その他と共に全労会議を結成し、かくて全繊同盟は労使協調の組合へと変質していつたのであるが、その傾向の中で呉羽紡績労組も同様闘う組合から労使協調の組合へと変つていつた。このような呉羽紡績労組の中で大阪支部(大阪本社、東京支店、名古屋支店の組合員から成る)のみは申請人らが中心となつて全繊同盟の総評脱退に反対、呉羽紡績労組の全繊同盟脱退反対を唱え組合の右傾化に抵抗する中心勢力として奮闘したのであるが、大阪支部においても昭和二九年三月の支部役員選挙で元木貞次らを中心とする職制候補グループが健三らを中心とする当時の執行部を他の紡績労組に比してかなり左傾化していると非難して一斉に対立立候補したのを契機に申請人らの前記抵抗力は次第に奪われていつた。すなわち、同年三月の役員選挙では申請人らが一応勝利を収めたもののその直後行われた支部評議員選挙で元木グループが各職場から大量に立候補、当選したため評議員会において労使協調派に絶対多数を制せられるや健三らが執行部で活動することは困難になり、かつ、この傾向は年を追つて甚しくなつたため昭和三二年以降健三は執行部から退いて職場活動に専念し組合の下部、末端から正しい組合意識の再組織を企図せざるを得ない状況になつた。右のように健三らが執行部を退いて以来組合は一段と労使協調的になり会社と組合役員との結びつきは緊密になり、とくに、組合は会社の行う人員整理に対しても協調的立場を堅持した。すなわち、昭和三二年から昭和三三年にかけて会社は退職予定者調査の名のもとに人員整理を行い約五百数十名の退職者を出したが組合はこれに対し飽くまで調査であつて整理ではないと宣伝しこの問題については大会における発言も機関紙への投稿も一切禁止し、また昭和三三年から昭和三四年にかけて行われた「退職予定者受付」に対しても協力体制をとり肩たたきなどの退職強要に目を蔽つた。しかるところ、既述の如く申請人らは右「退職予定者受付」に対し、多年の組合活動の経験を生かし積極的な反対活動を展開し従業員の不満を組織化しつつあつたので健三、喜久枝のそれまでの組合活動を嫌悪していた会社はこれを契機に健三、喜久枝らの力を得て組合が再び闘争力を回復することを恐れ、これを未然に防止するため健三を名古屋支店へ転勤させたものであるところ、(ロ)大阪支部は組合員数三七四名、名古屋分会は僅か三三名であり、しかも名古屋分会にいたのでは支部役員、中央委員らと接触する機会は殆んどなく、したがつて組合全体に影響力をもつような組合活動は行いえないから本件転勤命令により健三の組合活動は著しく減殺されると同時に妻喜久枝との別居を余儀なくされ夫婦共に精神上、物質上多大の損害を蒙るものであるから右転勤命令は健三に対してのみならず喜久枝に対しても不利益扱いであるといわねばならず、(ハ)したがつてまた右転勤命令は健三に対し不当労働行為であると同時に喜久枝に対する不当労働行為でもある。
(二) 本件転勤命令は憲法第一四条第二七条に違反する。すなわち、
会社は既婚の永年勤続高給女子従業員を出来る限り整理することを基本的人事方針としているところ、本件転勤命令は右の方針の一環として高給永年勤続女子従業員である喜久枝を退職させる目的でなされたものである。しかし、単に女性であるという理由だけで、既婚、永年勤続になると退職を強要するのは右憲法の法条に違反し無効である。
(三) 本件転勤命令は労働協約第一八条、就業規則第八条に違反し無効である。
労働協約第一八条には「会社が組合員を転勤、転部又は出向させるときは、本人の事情を充分考慮する」、就業規則第八条には「会社は事務の都合により必要があるときには、転勤、応援又は転務替を命ずることがある。但し、転勤、転部又は出向については、本人の事情を充分考慮する」と定められている。しかるところ、本件転勤発令当時喜久枝は妊娠七ケ月の身重であつて会社はこのことを熟知しながら健三を転勤させたものであるが健三が名古屋に転住したため喜久枝は出産時夫不在のため甚しい不便を感じ出産児は生後間もなく死亡したような事情にある。このように申請人らに対し精神的、経済的に多大の損害をともなう別居を強いることは甚しく不当であつて、本件転勤命令は到底本人の事情を考慮したものと言へないから右協約並に就業規則の条項に違背し無効である。
(四) 本件転勤命令は公序良俗に反し人事権の濫用であるから無効である。すなわち、
本件転勤命令は喜久枝に退職を強要することを目的としたものであり、さもなくも、本件転勤が会社にとつて絶対必要であるというような合理的理由の存しない一方、同居の権利義務を有する申請人らは本件転勤によつて特別の理由もなく無期限に別居生活を強要され精神的経済的に多大の苦痛、損害を蒙るに至るものであるから、かかる転勤命令は公序良俗に反し人事権の濫用である。思うに同一の使用者が夫婦を雇傭している場合には、使用者は双方に対し人事権を行使しうることはいうまでもないが反面双方の雇傭上の権利を共に尊重しなければならないから、特別の事情のない限り転勤などの場合においても夫婦が同居できるよう配慮すべきである。
四、保全の必要性
以上の如く本件転勤命令は無効であるのに会社はこれを有効として健三の本社勤務の従業員として扱わないため健三は名古屋、喜久枝は大阪、に分かれ、現に別居生活を余儀なくされており、このため申請人らは精神的に多大の苦痛を味わい、かつ、別居による諸費用の増加等多大の経済的打撃を蒙りつつある。もし本案裁判の確定を待つていては回復しがたい損害を蒙ることは明らかであるから本件仮処分申請に及ぶ。
と述べ、被申請人の主張(転勤の合理性)に答えて、
名古屋支店自体はかえつて縮少傾向にあり、かつ、同支店営業課のうちで強化の傾向にあつたのは羊毛部門だけであり綿糸部門は全く強化の必要がなかつたところ、健三が営業課で担当させられている事務は綿糸部門のうちの、しかも画一的な「受渡」の事務で高校出が担当することの多い分野である。また申請人らの給与その他の手取りは合せて月六〇、〇〇〇円程度であつたから経済的にも別居生活は相当困難な事情にあつた(因に、別居のため要した特別支出は昭和三四年三月から昭和三六年三月までの二年間で四四五、〇〇〇円をこえる額に達している)。それゆえ、本件転勤には合理性があるとはいえない。と述べた。
被申請代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、
申請人主張の一、二、の事実は認める。同三の(一)の1、冒頭の事実のうち、健三が昭和二八、二九年度の大阪支部書記長、本部中央委員、昭和三〇年度の大阪支部執行委員、昭和三一年度の大阪支部評議員をつとめたことは認めるが、その余は不知。1、の(イ)ないし(ハ)の事実は不知。1、の(ニ)の事実中、昭和三〇年五月会社が名古屋支店縮少、木管部閉鎖の計画にともなう人員整理を組合に申入れたこと及び木管部の閉鎖が中止になつたことは認めるが、その余の事実は知らない。1、の(ホ)の事実は争う。1、の(ヘ)の事実のうち、昭和三三年一二月会社が組合に対し「退職予定者受付」の申入をしたこと及びその際本社従業員の一部につき興信所による家庭調査を行つたことは認めるがその余の事実は争う。(一)の、2の冒頭の事実中、喜久枝が昭和二四年一一月から昭和二六年五月まで組合本部書記であつたことは認めるがその余は知らない。2、の(イ)ないし(ヘ)の事実は不知。2、の(ト)の事実のうち、会社の従業員中約七〇%が女子従業員であり、会社が人事構成上永年勤続女子従業員や既婚女子従業員で能率の良くない者を出来るだけ少くし能率のよい未婚の若手女子従業員を多く採用したいとの希望を持つていること、昭和三二年下半期から繊維業界が不況になり同三三年から操短を強化し同年一二月組合に対し「退職予定者受付」の申入をしたこと、会社が本社従業員の一部につき興信所による家庭調査を行つたこと、本社の世帯持女子従業員三名が右受付に応じたことは認めるがその余は否認する。(一)の3、の(イ)(ロ)の事実は否認する。3、の(ハ)の事実のうち、昭和三〇年四月健三が組合専従から原職に復帰したことは認めるが、組合専従から原職に復帰するときにはその専従期間中は人事考課上標準者として取扱うことに労働協約上定められていて、健三も右定めに従い格付けされたものである。健三と同期入社の者との間に差等の生じているのは健三の書記長就任前既に生じているか或は健三の専従期間中同期の他の者が標準以上の成績をあげたことによる。したがつてこの点につき組合から何等の異議も出なかつたのであり、不利益扱いではない。3、の(ニ)の事実は認めるが、もともと、中央団交の交渉員として出席すべき労組の役員は中央執行委員及び必要ある場合支部執行委員長と定められているのであるから当時支部執行委員に過ぎなかつた健三は中央団交の正当な交渉員ではない。出席を拒否されたのは当然である。3、の(ホ)の事実は争う。3、の(ヘ)の事実も争う。喜久枝が組合専従になつたときの職務給は三級三号俸であり、原職に復帰したときの職務給も三級三号俸であつたから引下げの事実はない。ただ喜久枝が専従期間中に会社の査定と関係なく昇給等の方法により他の専従者と同様組合において増給されていたので実質的に減給される結果になつたにすぎない。3、の(ト)の事実は争う。職務給は従事している職務に対し支払われる賃金であるからその職務内容が変らない限り勤続年数が多くなつても昇給しないのである。喜久枝は資金課で同じ職務に従事しているのであるから職務給に関する限り昇給しないのは当然であつて何等不利益扱いではない。3、の(チ)ないし(ヌ)の事実は争う。(一)の4、の(イ)(ロ)(ハ)の事実のうち、大阪支部の組合員数、名古屋分会の組合員数が主張のとおりであることは認めるがその余は争う。呉羽紡績労組は終戦直後の混乱期から自主的に脱皮して組合員の自主的総意に基いて温健中正な組合を形成するに至つたものであつて、これは会社の不当介入によるものではない。また本件転勤命令は健三の組合活動の故になされたものではない。昭和三二年以降は健三は組合の役職になかつたのみならず活溌な組合活動も行つておらず組合内部においても重視されてなかつたから健三の組合活動を排除する必要もなかつた。さらに本件転勤命令は健三に対して発せられたもので喜久枝に対し発せられたものでないから右命令が喜久枝に対する不当労働行為となり得ないことは論理上当然であるのみならず、会社が喜久枝の組合活動を嫌悪しこれを排除する意図のもとに本件転勤命令を発したものでもない。また本件転勤命令は「退職予定者受付」問題につき会社と組合の団体交渉が妥結した昭和三四年一月一九日以後一ケ月を経過してなされているのであるから申請人らの「退職予定者受付」に対する反対運動を封殺するための転勤ということは考える余地がない。また大阪支部は大阪本社、東京支店、名古屋支店の組合員をもつて組織され名古屋支店の組合員からも大阪支部役員はもちろん、本部役員にも選出され得るのであるから健三が名古屋支店に転勤しても組合活動の範囲を減殺されることはない。(二)ないし(四)の事実中、労働協約第一八条、就業規則第八条に主張のような定めのあること、本件転勤命令発令当時喜久枝が妊娠していたことを会社が知つていたこと、出産児が生後間もなく死亡したことは認めるがその余の事実は争う。右条項にいう「本人の事情を充分考慮する」とは、転勤発令前に本人の意思を聴取するということではなく、また本人の個人的事情によつて転勤させるか否かを決定するということでもない。転勤は業務の必要から発令されるものであつて個人的事情は発令に至るまでの過程において参考にするという意味であるのみならず本件転勤発令に当つては後記の如く本人の事情を充分考慮したのであるから協約並に就業規則違反をもつて目することは到底できない。また妻の妊娠中夫に対し転勤が発令された事例は多く、妻の妊娠は夫の転勤を拒否すべき事由とは考えられない。さらに、喜久枝を退職させるため本件転勤を発令したものでないことはいうまでもない。たとへ別居とはいえ大阪名古屋間は距離も近く交通も至便であるから夫婦生活を営むにつき著しい支障があるとはいえない。かかる程度の一時の別居(本件転勤命令は健三に対し永久に名古屋支店に勤務することを命じたものではない。)は夫婦共稼ぎをしている以上互にこれを認容して然るべきであり、また認容することこそ夫婦協力義務の一として社会通念上認められているところである。また四級職以上の職員は雇傭に際し如何なる職場に転勤を命ぜられても異議なきことを条件として入社したのであるからこの者と結婚した者は双方ともこれを知つて結婚したものというべく、したがつて場合によつては転勤により別居生活も辛抱しなければならないのである。もしそうでないと、四級職以上の職員は社内結婚により他の職員が有しない、転勤を命ぜられないという特権、を取得し前記入社条件は全く反古と化するに至るのであつてこのため人事の公正が著しく害されることになる。されば本件転勤命令が公序良俗に反し人事権の濫用であるとの主張も理由がない。四、の事実中、申請人らが本件転勤命令により多大の精神的、経済的打撃を蒙りつつあるとの点は争う。
と述べ、本件転勤を発令した理由として、
本件転勤命令は会社の経営上の必要に基きなされ、かつ、合理的な措置である。すなわち、(イ)会社は毎年二月二一日に定期異動を行うのが慣例であり本件転勤もその定期異動の一部として発令されたものである。(ロ)会社では四級職以上の、いわゆる職員は、その人事権は本社の管掌にあり採用時から各事業場への転勤が予定されているものである。(ハ)近時、会社の業務の傾向として株式課は縮少、営業部門は強化される傾向にある。詳言すれば、株式関係の業務は従前総会関係業務、株式配当業務のピーク時を考慮して相当数の人員を保有していなければ円滑な業務運営ができにくい事情にあつたが会社では昭和三一年以来IBMによる株式関係業務の機械化を計りこれが軌道に乗るにつれて人員的に相当数の余力を持つようになつてきたので逐次その合理的な配置替を実施してきている一方、営業部門は業務内容の複雑化による事務量の増加のうえに紡績各社とも従来は取引が大口で最終製品の製造並に販売の如きは稀であつたのが近来は各社とも加工綿布の高級多様化のうえに更に二次製品の製造販売にまで手を染めるに至つたので営業部門の業務は数年来複雑化の一途をたどり、このため其の部門の人員強化は欠くべからざるものとなつてきている。(ニ)以上の事情の下に株式課にいた健三を名古屋支店に転勤させたものである。すなわち名古屋支店において営業部門強化の必要を生じ、かつ、右営業課は課長を除き大学卒職員は一人もいなかつたので人事構成上その強化のためには大学卒業者を送ることが適当且つ不可欠であつた一方、株式課においては大学卒職員は必要がなくなりつつあり、かかる事情のもとに株式課から営業の経験を有する大学卒業者を名古屋支店に転出させるには健三以外に居なかつた。なお、右転勤の際、本社営業部門及び東京支店営業課をも強化したが本社営業部門には大学卒の中堅社員が多くしたがつて大学卒業者を必要とせず高校出の若手職員を必要とする事情にあつたし東京支店営業課へは本社営業部から大学卒業者を一名転勤させた。(ホ)なお右転勤発令に当つては次の如く健三の個人的事情も充分考慮した。すなわち<1>会社は健三を縮少の運命にある株式課に留まらせるよりは、同人の力を発揮することができ且つ将来性のある営業部門に転ぜしめることが同人の将来のため利益になると考えた。<2>申請人らの給与、賞与、一時金を合わせると月収合計は平均八一、〇〇〇円余であるから右収入から見て別居して二つの世帯を持つても経済的に困窮するとは考えられない(なお、会社は健三に月額二、五〇〇円の別居手当を支給しており、また名古屋で健三が居住中のアパート代も会社が負担しているし、喜久枝の居住中の社宅も健三に対し貸与していたものであるから本件転勤発令後は、もともと明渡さねばならぬものであるが、なお引続いて喜久枝に居住を許しているものである。右のように会社は申請人らに対し好意的処遇をしている)。<3>地理的に見ても大阪と名古屋ならば別居しても結婚生活にさして支障があるとは考えられない。<4>本件発令当時会社は喜久枝の妊娠の事実を知つてはいたが、妊娠は病気ではないし妻の妊娠時に夫に対し転勤を発令することは会社においては多々行われているので本件について特別の扱いをする必要を認めなかつたし、喜久枝の実家は布施市にあつて母並に弟夫婦も居るので会社としては何らの不安を感じなかつた。と述べ、さらに、健三は現に名古屋支店営業課の綿布糸係で「受渡」の事務を担当しているが課内の仕事の割振りは支店長或は課長の指示によるものであり、かつ、「受渡」の事務は「販売」の事務と共に営業における車の両輪の如く重要な事務であつてその間に差等はない。したがつて本社の営業部でも「受渡」の事務を担当する者は大学卒業者と高校卒業者とは数の上でも相なかばしており一般的に極めて有能な者を以てこれに当てている。
と附陳した。
(疎明省略)
理由
被申請会社が肩書地に本社を有し、東京、名古屋に各支店を有し、長岡ほか八ケ所に工場を有する紡績会社であつて、従業員約八、〇〇〇名をもつて綿、羊毛製品などの製造販売を営んでおり、申請人健三は会社の大阪本社総務部株式課に、申請人喜久枝は大阪本社財務部資金課に、それぞれ勤務する会社の従業員であり、かつ、申請人らは夫婦であるところ、会社が申請人健三に対し、昭和三四年二月二一日付辞令をもつて、本社総務部株式課勤務を解き名古屋支店勤務を命じたこと、は当事者間に争いのないところである。
(申請人喜久枝の本件仮処分申請について)
喜久枝は本件において仮処分申請の当事者として、会社は健三を大阪本社の従業員として取扱わねばならない旨の仮処分命令を求めているのであるが、次の理由により喜久枝は本件仮処分申請の当事者適格を有しないものと判断する。すなわち、右仮処分申請は健三に対する前記転勤命令が無効であると主張してこれを前提として、健三の本社従業員たる地位を仮に定める趣旨の、いわゆる仮の地位を定める仮処分を求めるものであることは、その主張に徴し明らかであるところ、仮の地位を定める仮処分は一の形成処分であるから、形成されるべき権利ないし法律関係の当事者の間においてのみ形成されうるものである。
健三が本社の従業員であるという地位は会社と健三との間の法律関係(会社と健三との間の、健三の労務の提供の場所を本社とする、雇傭関係)であつて、会社と喜久枝との間の法律関係ではないのであるから、健三の本社従業員たる地位は会社と健三とを仮処分当事者として、その間においてのみ形成されうるのであるから、かつ、その間に形成されて始めて形成の効果を現出しうるものである。いいかえると、かりに、健三の本社従業員たる地位を定める仮処分が会社と喜久枝との間に(会社と喜久枝とを仮処分当事者として)なされたとしても、健三の本社従業員たる地位を形成する効果を生ずるに由ないことは見易い道理である。なるほど、会社を被告として、健三が本社の従業員たる地位を有することの確認を求める本案訴訟(確認訴訟)において、喜久枝が原告としての当事者適格を有するか、すなわち、当該法律関係の当事者でない者が第三者の法律関係の確認訴訟の当事者になりうるかの問題については、確認の法律上の利益のある限り、これを肯定すべき余地のあるものと解しうるとはいえ、それは確認訴訟の性質上然るのであるから、これを地位の形成処分たる仮処分にそのままあてはめることはできないと解さねばならない。形成処分は形成さるべき法律関係の当事者間になされてはじめてその効力を生じうるものであることは、たとへば、雇傭関係は、雇傭の当事者間に雇傭契約が締結されて始めて、発生し、また、雇傭の一方当事者から他の当事者に解除の意思表示がなされて始めて、消滅の効果が生ずるのと同様なのである。以上説示のとおりであるから、喜久枝は本件仮処分申請の当事者適格を有せず、したがつて喜久枝の本件仮処分申請は不適法としてこれを却下するほかない。
(申請人健三の仮処分申請について)
(一) 本件転勤命令が労働組合法第七条第一号に違反する不当労働行為であるかどうかの点はしばらく措き、右命令が申請人のいうように労働協約ないし就業規則に違反し或は人事権の濫用として無効であるか否かについて検討してみる。
成立に争いのない甲第二号証、第三号証の一、乙第一、第二号証、第六ないし第八号証、証人北村幸の証言(第一回)により成立の真正を認めうる乙第三ないし第五号証及び証人北村幸の証言(第一ないし第四回)並びに申請人ら各本人訊問(健三については第一ないし第三回、喜久枝については第一、二回)の結果を綜合すると、健三(三六才)は慶応大学を卒業して昭和二四年四月被申請会社に入社し当初六ケ月の工場勤務を経て後は本件転勤に至るまで引続き本社に勤務していた六級職の職員であり、喜久枝(三六才)は昭和一七年一〇月被申請会社に入社し昭和一九年頃一年間だけ呉羽航空機株式会社へ転出したことがあつたが昭和二〇年一〇月再び被申請会社に復帰して後は引続き本社に勤務し、現在本社財務部資金課に所属している四級職の職員であるが、二人は昭和二九年八月いわゆる職場結婚をして西宮市所在の社宅に同居し、共に大阪市の本社に通勤していた、いわゆる共稼ぎ夫婦であつてその間に子女はないこと、健三は本件転勤当時は本社総務部株式課に勤務していたが、もともと株式課はその担当する総会関係業務、株式配当業務の性質上その事務が時期的に繁忙を極めることを考慮し、これに備えて常時相当数の人員を保有していなければ円滑な運営ができない実情にあつたところ、会社では昭和三一年以来いわゆるIBMによる株式関係業務の機械化を計つたため、それにつれて株式課の人員に余力を生じ逐次、人員の合理的配置替が実施されつつあり(このような株式課縮少の傾向は他の会社にも共通の傾向であつて、その後昭和三五年六月には被申請会社の株式課は廃止され株式業務は日本証券代行株式会社に委託された)、したがつて大学卒の職員の必要性は減少していたのに引換へ、各紡績会社に共通の現象として被申請会社においても従来は稀であつたワイシヤツ、ブラウス等の最終製品の製造・販売にまで進出するようになつた関係で営業部門の強化が必然的に要請され数年来営業部門の人員は逐次増加の傾向にあつたこと、右のような傾向に従い会社としては名古屋支店営業課をも強化することにしたが同営業課には従前、課長のほかには大学卒の職員は一名もいなかつたのでその強化のためには人事構成上大学卒職員を配置することが必要であり、かつ、当時縮少傾向にあつた本社株式課から過去に営業部に配属された経験のある大学卒職員を転出させるとすれば健三のほかには適任者がいなかつたこと、このような事情のもとで会社は昭和三四年二月二一日の定期異動の一環として、名古屋支店営業課を強化するため、大学卒職員であり、かつ、昭和二七年七月から同二八年四月まで本社営業部綿糸課に配属された経験のある健三を本社株式課から名古屋支店へ転勤させたものであり、なお、右定期異動に際しては名古屋支店営業課だけでなく本社営業部及び東京支店営業課も強化されたが、本社営業部には従前から大学卒の中堅職員が多数いたので大学卒職員は不要で、むしろ高校出の若手職員を必要とする事情にあつたため、高校出の職員を四名増強し、また東京支店営業課では其の仕事の性質上語学のできる大学卒職員を必要としたので本社営業部から語学力のある大学卒職員が一名転勤したこと、これに対し健三は右転勤命令は不当であるとして会社に対し「転勤すれば妻喜久枝との別居を余儀なくされるが夫婦の別居はできない。一切の不利益扱いは断る。本件転勤には疑義があるから転勤を延期されたい。」旨申入れたが、会社は「不利益扱いの意思はない。夫婦の問題は健三自身が解決すべき問題である。転勤は延期できない。」旨右申入を拒否したので、健三は転勤を承認したものでない旨を会社に通告のうえ、やむなく名古屋支店へ単身赴任し、名古屋市内でアパートの一室を賃借して喜久枝と別居し、現に同支店営業課に勤務していること、喜久枝は従前のまま西宮市の社宅に居住し(社宅は、もともと、健三に貸与されたものであるが会社は喜久枝にそのまま居住を許している)休日毎に健三が名古屋から右社宅に帰り喜久枝との夫婦生活を維持していること、本件転勤当時における健三、喜久枝夫婦の収入は給与、賞与を合せると月平均八万円位(健三に支給さる別居手当月額二、五〇〇円を含む)で、そのほか健三のアパート代は月二、五〇〇円だけ健三が負担しこれを超える部分は会社が負担していること、以上の事実が疎明される。
ところで、労働協約第一八条には「会社が組合員を転勤、転部又は出向させるときは、本人の事情を充分考慮する」、就業規則第八条には「会社は事務の都合により必要があるときは、転勤、応援又は転務替を命ずることがある。但し、転勤、転部又は出向については、本人の事情を充分考慮する」との定めのあることは争いのないところ、右条項の立言の仕方並に証人林吉弘の証言を併せ考えると、右条項の趣旨は、これを転勤についていえば、会社は経営上の必要があれば、職員に転勤を命じうる旨会社の転勤命令権(人事権)を明らかにすると同時に転勤を発令するに当つては本人の個人的な事情も無視することなく充分配慮してやるという極く当然の事柄を表わしたもの、いいかえると、転勤命令権は会社が専有するが会社はこれを正当に行使すべく、濫用してはならない旨の当然の事理を表明したものであると解せられる。したがつて、転勤に当つて本人の個人的な事情をどの程度考慮すべきかは、結局、会社の経営上の必要の度合との相関関係において、それが人事権の濫用にならないかを社会通念にしたがつて判断することに帰着するといわねばならない。
しかるところ、前記認定事実によれば、先づ、健三を名古屋支店へ転勤させるについての会社の経営上の必要の度合は相当大きかつたと認めなければならない。尤も、申請人は名古屋支店営業課で強化を必要としたのは羊毛部門だけであつて綿糸部門はその必要がなかつたし、また申請人が右営業課で担当させられている事務は綿糸部門のうち大学卒職員を必要としないような、画一的な「受渡」の事務であると主張するところ、証人井上鋭三郎の証言によれば、名古屋支店営業課には羊毛係と綿糸布係とがあり綿糸布係は「販売」と「受渡」の事務から成つていて健三は綿糸布係の「受渡」の事務を分担していることが認められるが、成立に争いのない甲第一号証、右井上証人並に前顕北村証人の各証言によれば会社は健三を名古屋支店営業課に配属させるべく「名古屋支店勤務」の辞令を発したものであり営業課のうちの如何なる事務を分担させるかは同支店において支店内の諸事情を考慮して支店長の決定すべき事項であり(したがつて転勤命令自体の効力とは無関係)、事実、支店長において健三の分担すべき事務を右の如く定めたことが認められるから、仮に主張の如く営業課中羊毛部門のみが強化を要する部門であり、かつ、「受渡」の事務が大学卒職員を充てる必要のない事務であるとしても、右転勤命令自体が経営上の必要に基かないものであると断ずることは早計である。のみならず、綿糸布係が強化を要しない部門であり、また「受渡」の事務が大学卒職員を不要とする、いいかえると、大学卒職員を当てるにふさわしくない事務であると認めねばならないような疎明は存しない(前記北村証人の証言によれば本社営業部においても相当数の大学卒職員が「受渡」の事務を担当していることが認められる)。
次に、本件転勤命令が人事権の濫用になる程、健三の個人的な事情についての配慮を欠いた措置であつたかどうかを考へてみる。成程、喜久枝の勤務する本社(大阪市)と健三の勤務する名古屋支店(名古屋市)との距離を考えると交通の便を考慮に入れてもその中間に住居を構えない限り(中間に住居を構えることを求めることは現下の住宅事情から見て酷であろう。)同居して双方が勤務することは不可能であり、したがつて夫婦のいずれかが退職しない限り(退職を求めることも酷であろう。)本件転勤によつて別居を余儀なくされることは明らかであり、また別居により世帯が二分され、これにともない生活費の増加、通信並に交通費等の余分の出費を余儀なくされること自明であるから、その結果健三、喜久枝とも相当の精神的、経済的苦痛をうけるであろうことも想像に難くないところである。しかしながら、本件転勤命令は健三に無限に名古屋支店勤務を命じたものでなく証人北村幸の証言(第四回)によれば転勤は一般的に言つてほぼ三年間ぐらいを標準にして行われるのが通常であり、このことは職員間でも暗黙に了知されていることが認められるから、申請人らの別居もいわば一時的のものと見なければならないこと、別居とはいえ東京支店へ転勤を命ぜられたような場合とは違い、大阪・名古屋間は比較的近く交通も至便であるから毎土曜日に名古屋から帰省し不充分ながら夫婦としての精神的、肉体的共同生活を味わいうること(事実、健三もそうしていることは前に見たとおりである)、申請人らは結婚後すでに相当の年数を経ていること、別居にともない生活費、通信並に交通費等かなりの出費を余儀なくされるとはいえ申請人らの収入・家族数(収入が転勤当時月平均八万円、夫婦二人で子女のないことはすでに認定したとおり。)から見れば別居生活は経済的にみて左程むずかしいとは考えられないこと、職員である以上転勤は当然予想される事柄であり、したがつて結婚に際しても共稼ぎである限り将来いずれかの転勤によつて別居という事態の起ることも或程度予測していなければならないと考えられること、転勤後僅かながら健三には別居手当も支給されており、かつまた、喜久枝も従前どおり社宅の使用を許されていること、さらに本件転勤について会社に前認定のような経営上の必要のあつたこと等を考え合すと、申請人らは共稼ぎをしている以上右の程度の別居並にこれにともなう精神的・経済的苦痛は社会通念に照しこれを忍ばねばならないと解するのが相当である。なるほど夫婦は互に同居の権利義務のあることはいうまでもないが(民法第七五二条)、右法条は共稼ぎの夫婦の一方の転勤など相当の理由により一時同居ができなくなつた場合にまで同居請求権の行使を許容し、同居義務の履行を要求しているものとは解せられないから、本件転勤の結果同居義務に違反せざるを得ない、いいかえると、本件転勤命令が右法条の同居の権利を侵害したということはできないこともちろんである。
以上のとおりであるから本件転勤命令は人事権の濫用になるほど本人の個人的な事情を無視した措置であると認めることはできない。尤も、本件転勤当時喜久枝が妊娠中であり、そのことを会社が知つていたことは争いのないところであり、また申請人は喜久枝が出産(出産児死亡)の際、独りであつたため甚しく不便を感じた旨主張しているが、妻の妊娠が夫に対する転勤発令を不当ならしめる理由になるとは社会通念上解しがたいしまた出産の際人手が足らなければ親類・縁者の助けを依頼するなり他人を雇うなりしてこれに備えるのが社会常識であるから出産時の人手不足による苦痛を本件転勤の所為にすることはできない。
更に、申請人は本件転勤命令は喜久枝の退職を強要することを目的としてなされたから人事権の濫用であるとも主張するところ、なるほど、会社は従業員中約七〇%が女子従業員であるため、永年勤続高給の女子従業員や既婚女子従業員をできるだけ少くし未婚の若手女子従業員を多く採用することを人事構成上の方針としていたところ、昭和三二年下半期からの繊維業界の不況、同三三年からの操短の強化にともない、会社が同年一二月右人事構成方針にしたがい「退職予定者受付」を行うことを発表しその旨組合に申入れたことは後に認定するとおりであり本社勤務の既婚女子従業員のうち三名が右受付に応じて退職したことは当事者に争いのないところであるから、右の事実から見ると永年勤続の既婚女子従業員である喜久枝の退職は会社の希望にかなうものであつたことは想像するに難くないが、更に進んで会社が別居の苦痛を与えて喜久枝に退職を余儀なくさせる目的で健三に転勤を発令したものと断ずるに足る資料は存しない。
如上説示のとおりであるから、本件転勤命令が労働協約ないし就業規則に違反し、或は人事権を濫用したものであるとは認められない。
(二) 次に、申請人は本件転勤命令は喜久枝を退職させる目的でなされたものであるところ、単に女性であるというだけで既婚、永年勤続者になると退職を強要することは憲法第一四条第二七条に違反するから、本件転勤命令は憲法違反の無効のものであるというが、本件転勤命令が喜久枝を退職させる目的でなされたとは認めがたいこと右に見たとおりである以上すでに右主張は採用できない。
(三) 最後に、本件転勤命令が不当労働行為に該当し無効であるか否かについて検討する。
健三が組合の役職として昭和二八年度及び昭和二九年度の大阪支部(大阪本社、東京支店、名古屋支店の組合員で構成されている)書記長、組合本部の中央委員、昭和三〇年度の大阪支部執行委員を、また喜久枝が昭和二四年一一月から昭和二六年五月まで組合本部書記を、それぞれ務めたことは争いのないところ、成立に争いのない乙第一五号証、申請人山本喜久枝本人訊問の結果により成立の真正を認めうる甲第五ないし第八号証、第一一号証、第一八号証の一ないし九、第二六号証の一、二、申請人山本健三本人訊問の結果により成立の真正を認めうる甲第一九号証の一ないし五、第二〇号証、証人森山都(第一、二回)、細川せつ子、樋口かず、森重司の各証言並に申請人ら各本人訊問(健三については第一ないし三回、喜久枝については第一、二回)の結果を綜合すれば、
健三は(イ)組合大阪支部の昭和二五年度評議員(財務部管理課選出)をつとめたが、同年一一月に会社が瓜生田中央執行委員、島大阪支部執行委員を解雇(レツドパーヂ)したのに対し大阪支部が臨時大会を開いて討議し解雇反対の決議をした際、大会席上でレツドパーヂ反対の強力な発言をし、(ロ)昭和二七年度も同様評議員をつとめたが、評議員として当時会社側から提案された終業時刻三〇分延長案に反対し、また同年末から昭和二八年にかけておこつた京都工場閉鎖問題につき閉鎖反対を主張すると同時に、当時組合としては閉鎖反対を決定していたのに中央執行委員長が閉鎖もやむを得ないとの趣旨の文書をひそかに各支部宛に送付していたのを暴露して追及し、(ハ)昭和二八年度には大阪支部書記長に選出されるや懸案の冷房装置設置を会社に要求してこれを実現し、また当時一斉操短と共に行われた人員整理に反対するなど大阪支部の中心的存在として活動したが、恰度同年には呉羽紡績労組の上部団体である全繊同盟が総評を脱退するにいたり、呉羽紡績労組としても当然全繊同盟と運命を共にしたが健三は大阪支部の中心として労働者の連帯と団結を守るという立場から右脱退に反対を主張した結果、大阪支部のみは大阪総評にとどまつた。(ニ)昭和二九年には、右のように総評を脱退した全繊同盟が海員組合等と共に全労会議を結成し、かくて全繊同盟が総評傘下の斗争的な組合から比較的温和な組合へと変質していつたのにつれて、呉羽紡績労組も全体として同様の傾向をたどつた。このような情勢の変化につれて大阪支部でも昭和二九年三月の支部役員選挙に際し元木貞次等を中心とするグループが健三を中心とする当時の執行部を他の紡績労組に比しかなり左傾化していると非難して健三らに対立して一斉に立候補したので健三らは右のような組合の変質傾向に抵抗して斗つた結果、右選挙では一応健三らを中心とするグループが勝つて健三は昭和二九年度も前年に引続き大阪支部書記長に選出された。かくして健三は昭和二九年度も大阪支部書記長として組合活動をしたほか、大阪総評幹事として近江絹糸労組の争議の支援、その中での繊維懇談会の結成による繊維労働者の交流の促進などの諸活動をした。しかしながら、昭和二九年度の支部評議員選挙では右の元木貞次らのグループが各職場から大量に立候補して当選し過半数を占めたので健三らが執行部で活動することは段々困難になり、したがつて健三らの勢力、いいかえると前記のような組合の変質の傾向に対する抵抗力は次第に奪われ、年と共にこの傾向は甚しくなつた。(ホ)かくして、昭和三〇年度には健三は書記長に立候補せず大阪支部の一執行委員にとどまつたが、それでも執行委員としては労働部長を担当し会社の名古屋支店縮少、木管部閉鎖、の計画にともなう人員整理に反対して活動したほか、交通費の増額を実現するなど労働条件の維持増進につとめたほか、同年秋の綿紡賃上統一ストライキの際呉羽紡績労組が全繊同盟の統制を破つて単独妥結したのに反対し、かつ、右を契機に呉羽紡績労組が全繊同盟を脱退する動きを示したのに対し労働者の団結を守るという立場から強力に反対を主張し、その結果大阪支部は脱退反対の決議をした。(ヘ)しかし、昭和三一年度になると前記の傾向は一段と進み、これにつれて健三の組合内での勢力は微弱となり、かくて健三は執行部を離れ株式課選出の一評議員となつた。そして評議員としては株式課の労働強化に反対を唱えたほか会社提案の住宅手当改正、ストライキ中の協定勤務者増員、に反対を主張したが、(ト)昭和三二年度以降は前記の傾向に抗し難く遂に健三は組合の一切の役職から離れざるを得なくなり本件転勤に至るまで何等の役職になかつた。そしてその間健三は昭和三二年に猪名川社宅の入居基準についての会社の取扱に反対してこれを組合に持込んだり、会社の厚生施設である六甲山荘を健康保険組合に売却しようとする会社側提案に反対してこれを組合に問題として取上げさせたり、また昭和三三年三月の支部大会で執行部が用いた委任投票の方法に反対を主張し、或は始業時一〇分間のアローワンス(一〇分以内の遅刻は遅刻として扱わない制度)を廃止する旨の会社側通告に対し評議員に反対するよう働きかけたり、また昭和三三年暮から問題になつた後記「退職予定者受付」に関する会社側の申入に対し職場討議を通じて反対し或はこれに対する大阪支部婦人部の反対活動を支援したり等して一組合員としての諸活動をしたが、組合役職を離れてから後の活動は総じて執行部と意見を異にし、これに批判的なものであり、したがつてまた組合全体に対しあまり影響力のあるものではなかつた。一方、喜久枝は(チ)昭和二四年には大阪支部執行委員として青年婦人対策部長を担当し、また同年一一月から昭和二六年五月までは組合の本部書記として活動したが、(リ)その後は組合の正式役職にはなく婦人部員等として(但し、昭和二九年度だけは大阪支部評議員であつた。)全駐労、生野ゴムの争議の支援(昭和二八年)、近江絹糸の争議を契機に生れた繊維懇談会での他企業の青年婦人労働者との交流の促進(昭和二九年)、既婚女子労働者の労働条件の改善を目的としての既婚者懇談会の発足、女子労働者の意識向上のための学習会「ドングリクラブ」の結成、名古屋支店縮少、木管部閉鎖並に呉羽紡績労組の全繊同盟からの脱退、に対する反対活動(昭和三〇年)、本部通信員としての中央機関紙への投稿活動(昭和三一年)、支部執行部が用いた委任投票の方法に対する反対、大阪支部婦人部副部長(これは組合の正式役職ではない。)として女子労働者の賃金への関心を高めるための基本給細則の説明会の開催(昭和三三年)等に力をつくしたほか、(ヌ)会社は従業員中約七〇%が女子従業員であるため永年勤続女子従業員や既婚女子従業員をできるだけ少くし未婚の若手女子従業員を多く採用することを従来からの人事構成方針としていたところ、昭和三二年下半期からの繊維業界の不況にともなう昭和三三年からの操短の強化に相応じて会社が昭和三三年一二月に「退職予定者受付」を行うと発表しその旨労組に申入れ、かつ、既婚高級女子従業員は愛社精神をもつて右受付に協力されたい旨希望したところ、組合本部並に大阪支部としては右申入を受入れるという立場をとつていたが(そして事実、昭和三四年一月一九日中央団体交渉において会社と組合との間に「退職予定者受付」を実施する旨の協定が成立した。)大阪支部婦人部では喜久枝が中心となり右受付が実施されると形式は退職希望者を募るということではあつても実質的には種々の方法で高級既婚女子従業員の退職が強要されるという見方から右受付実施に反対を唱え(但し、執行委員である婦人部長は反対には消極的であつた。)、各支部の婦人部に反対の檄をとばしたり会社の行つた興信所による高級既婚女子従業員の家庭調査に抗議したりして最後まで反対を主張したが、(ル)これを要するに喜久枝の組合活動は健三と同じ考方に立つものであり、したがつて前記のような組合の変質の傾向には健三と共に抵抗したが健三を中心とするグループの勢力が衰え健三が執行部を離れてからは執行部に反対しこれに批判的な活動が多かつたし、その活動も大阪支部全体に対する影響力は微弱なものであつた。以上の各事実が疎明せられ右認定を動かすべき資料はない。
しかるところ、一方、真正に成立したものと認められる甲第三八号証の一、二、前記森、細川両証人の証言及び申請人ら各本人訊問の結果によれば、(1)健三が昭和二八年度の支部役員選挙で書記長に立候補した際、会社の原田庶務課長(本社の労務担当者)が健三に右立候補を取下げるよう要請したこと、(2)昭和三〇年四月健三が組合専従(大阪支部書記長)から原職に復帰した際会社は健三の職階を五級と定めたが、当時健三と同期入社の者は大半がこれより高い六級になつていたこと、(3)昭和三〇年五月名古屋支店縮少、木管部閉鎖問題についての調査のため健三(当時大阪支部執行委員)が名古屋に出張することを株式課長が拒否したこと、(4)昭和三四年一月「退職予定者受付」の問題で支部評議員会が開かれた際株式課選出の評議員が差支のため健三が代つて出席することを申出たところ就業時間中であつたので株式課長がこれを拒否したこと、(5)昭和二六年四月喜久枝が組合専従(本部書記)から原職に復帰した際、組合専従当時より二号俸だけ減俸されたこと、(6)昭和三三年四月の成績査定で従業員の九二%ぐらいが職務給の昇給をうけたのに喜久枝は職務給が昇給しなかつたこと、(7)昭和二八年の賃上斗争の際会社の課長らが組合役員らに対し不穏当な談話をしたことのあつたこと、(8)会社の労務課長が組合機関紙掲載の記事に皮肉ととれるような言葉を述べたことのあること、(9)昭和三四年度の支部執行委員の選挙に森重司が立候補したとき会社の資材部長が暗に立候補をやめるよう勧めたこと、以上の各事実が窺われる。尤も、証入池田俊雄(第一回)、北村幸(第三回)、林吉弘の各証言によれば、原田庶務課長は健三の親族で健三の入社に尽力したという特殊な関係にある者であること、組合専従から原職に復帰するときはその専従期間中は人事考課上標準者として取扱つて原職における格付を行うよう労使間で協定されており、かつ、組合専従期間は会社と無関係に労組において専従者の昇給を行うので会社の標準よりも高くなり勝ちであるため原職復帰に際し標準に引下げざるを得ない場合が屡々あり喜久枝の場合も右のような事情により減俸されたものであること、健三が名古屋へ調査に行くことを株式課長が拒否したのは株式課の事務に差支があるためであり、かつ、事務上の差支があるときは所属課長としてはこれを拒否することは当然であるのみならず、その後組合からの要望により希望を容れてこれを許可したため健三は調査のため名古屋へ行つたこと、が窺われるから、前記原田課長の行為が会社の意思に基くとは必ずしも断定できないし、また喜久枝が原職復帰に際し二号俸下げられたことを以て必ずしも差別扱いであるとはいえないし、さらに健三の名古屋行き拒否の事実を以て不当行為であるともいえない。また人事考課の特殊性に鑑みるときは前記(2)(6)の事実を以て直ちに不当労働行為であると断ずることも早計といわねばならないし、さらに就業時間中の評議員会への代理出席を所属課長が常に許さねばならないものとも解しがたいから前記(4)の事実を以て直ちに会社の不当行為とみることもできない。とはいえ、前記認定の諸事実を綜合しこれに申請人ら各本人訊問の結果を合せ考えると、会社が健三、喜久枝の組合活動(健三らが組合役職にいた当時の総評傘下での、いわば斗う組合活動及び組合役職を離れて後の執行部に反対し且つ批判的な活動)を心よく思つていなかつたことはこれを窺うに足るといわなければならない。
しかしながら翻つて考えるに、すでに見たところから明らかなように、健三は昭和三二年以降は組合役職から離れ、健三を中心とするグループの勢力はすでに衰え、したがつて執行部と意見を異にし、かつ、これに批判的な健三の諸活動もすでに組合(大阪支部)一般に対する影響力は弱いものとなつていたし、喜久枝についても右と同様であつたこと、本件転勤発令当時において健三らの組合内部における勢力が近い将来再度隆盛になるであろうと思われるような特段の事情を認めるに足る疎明もなく、また健三が組合執行部を離れて後の組合がいわゆる御用組合と化したと認めるに足る資料も存しないこと並びに本件転勤命令を発令するに当つてはすでに見てきたように会社に経営上の必要が存し、かつ、右転勤による申請人らの別居が社会通念上忍ばねばならない程度のものであること等を彼此考え合すと、会社が申請人らの組合活動を嫌悪していたとはいえ、この事ないし右組合活動を排除することが本件転勤発令の重要な動機になつていたと認めることは到底できない。してみると本件転勤命令が不当労働行為であるという申請人の主張も採用の限りでない。
以上、説示のとおりであるから本件転勤命令は有効であり、その無効を前提とする申請人健三の本件仮処分申請は被保全権利を欠き失当であるから却下するほかない。
よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 宮崎福二 荻田健治郎 白石隆)